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【連載:ユダヤ人の発想に学ぶ11】

ユダヤ人に見る古典の読み方
手島 佑郎  
(ギルボア研究所所長・ヘブライ学博士)  
 
現代では「情報化社会」といいいながら、英語のinformationと、intelligenceという言葉を混同している場合が多い。前者は成形された製品、後者は材料分析能力だ。科学研究に必要なのは、他人からもらうinformationではなく、研究者自身のintelligencではないだろうか。

1.経営者に求められる能力

経営者に求められる5大能力として、統率力、行動力、計数力、情報力、先見力がある。
一代で事業を築き上げた経営者は、大抵、これらの能力を経験の中で培っている。なかば動物的直感に近いような形で、必要に応じて、必要な場でこれらの能力を発揮する。彼らにはこうした能力を身につけるための帝王学を受けてはない。本来、経営は経験の場で身につけるべきものである。どれだけ教室で経営学を説いても、所詮、それはシミュレーションにすぎない。現実の場面で問題に直面して、じっさいに解決してみないかぎり、経営学も孫子の兵法も、たんなる学説、一片の方程式にすぎない。
しかしながら、問題に直面したときに、いかに速やかに問題を解決するか。つまり、問題解決の能力は、上記5大能力にまさって重要なのである。これは、日頃からの努力と習慣によって高めることができる。
では、どのようにすればいいのか。古典を読み、古典に親しむことによってである。

2.さまざまの読み方

とはいえ、では、どのように古典を読むか。ただ字面だけを読めばいいわけではない。古典を読む一例として、私が永年親しんできた聖書の読み方について考えてみよう。
一般に、聖書の読み方には3通りある。第1に、聖典として読む。第2に、文学書として読む。第3に、歴史書として読む。第1の読み方は、聖書は神の啓示であるからと信じ、その内容を有難く受け止める。第2の読み方は、聖書中に登場する人物の心理描写や物語の流れを鑑賞する。第3の読み方は、聖書の記述が歴史的に正確か、あるいは歴史的事実をどのように反映しているかに重点を置く。
この他に、聖書学者の学問的読み方がある。神学的見地から、神とは何か、神は何を考えているか、といった議論を展開する土台として読む。文法学者や言語学者もそれぞれの見地から、聖書の原文を分析したり研究したりする。
1冊の聖書をめぐって、信仰者、文学者、歴史学者、神学者、文法学者、言語学者とそれぞれ読み方も取り上げ方もちがう。心の拠り所として読む者もおれば、学問的研究や批判分析の対象として読む者もいる。一般的にキリスト教会の牧師さんは、聖書の内容について特段の批判をしない。聖書の権威を借りて、彼らの考えや説教の正当性を築こうとする。

3.ラビたちの読み方

ところが、聖書の出版元というか本家ユダヤ教のラビ(学者)たちは、さらに別の読み方、第7の読み方をする。聖書の記述に矛盾はないか、欠落はないか、話の展開に飛躍はないか。他に類似の記述はないか…。疑問をもって読むのである。というよりも、疑問点を探しながら読むのである。
矛盾があるとすれば、何が矛盾しているのか。その矛盾は、どうすれば克服でき解決可能か。欠落を補うというが、何を補うべきか。補うと、新たにどのようなことが明らかになるか。話が飛躍したのは何故か。話を飛躍させた意図は何であったか。類似の記述があるとすれば、類似であっても、相違点はないか。相違があれば、そこからどのような類推が可能か…。ラビたちの疑問は止まるところを知らない。

4.ユダヤ人と聖書

なぜラビたちはこのように疑問をもって聖書を読むのか。
ひとつには、ユダヤ人が聖書を読んできた歴史の長さである。ユダヤ人も当初は、聖書を聖典として疑問もなく拝受していたかもしれない。だが、少なくとも2000年以上にわたって、毎週の礼拝で聖書を朗読し、毎年1年間かけて通読してくるうちに、おのずと聖書の記述の矛盾や相違点に疑問をもつようになったものと思われる。
対照的に、キリスト教社会での聖書と人々との関係は、まだ比較的新しい。聖書が人々の生活に身近な書物となったのは、ルターの宗教改革以来である。それまでは、人々は教会のミサに出席するだけで、聖書を原典で読むとか、自分の国語の翻訳で読むとかいう機会はなかった。ルターはカトリック教会から1519年に破門されて、独自の礼拝形式を必要とするようになって、聖書のドイツ語訳化をはじめた。それ以来、次第に他の国々でも聖書の翻訳がひろまり、一般の信者にも読めるようになった。ユダヤ人と比べると、キリスト教徒はまだまだ聖書を読み込んでいない。
ユダヤ人にとって、聖書は彼らの生活を規制する法典でもある。だから、聖書の記述では不備な法律部分があると、それを聖書に準拠して整備しなおしたり、聖書の精神を尊重して補充拡大したりするなどの必要に迫られてきた。そのことも、聖書の記述に疑問をもたせ、矛盾や問題点の整理と聖書の完璧さを追求する動機となったのである。
そればかりか、彼らは、日常生活における政治・経済・教育・家庭・共同体などのあり方に関する様々の問題に対処するヒントも、聖書の中からつかもうとしてきた。そのためにも、聖書を隅々までひっくり返し、詮索し、あらゆる疑問を呈してきた。今もその作業を続けている。

5.ラビたちの疑問

例えば、次の一節を読んで、皆様は何を考えるであろうか。
「おびただしい家畜がルベン族にはあり、ガド族には非常に無数の家畜があった。彼らはヤゼルの地とギレアデの地を見た。みよ、その場所は牧畜の場所であった。そこでガド族とルベン族とは来て、モーセと祭司エレアザルと会衆の長老とに言った。…もし御恵みを頂戴できますならば、この地をしもべらに所領として与えてください…。」(聖書「民数記」32:1〜5)
読者の皆様のために、少し情報を補っておこう。
ルベン族というのは、イスラエル12部族中の序列第1位をほこる名門で、ガド族というのは序列第7位の、いわば傍系の出身だという点である。
両部族とも多くの家畜を所有していた。それゆえ、牧畜に適しているヨルダン川東岸の土地を分譲してほしいと、イスラエルの指導層に申し出た。ルベン族は、自分達は序列第1位だから、こういう肥沃な土地の取得をまっ先に名乗り出る権利があると考えたのであろう。
問題は、文章の後半の記述である。「そこでガド族とルベン族とは来て…」となっている。なぜルベン族とガド族と順序が入れ替ったのか。
ラビたちは、このように僅かな記述の差違にも注目する。そして次のように推測する。 ヨルダン川東岸のヤゼルとギレアデの地の取得を言い出したのはルベン族ではなく、首謀者はガド族であったのだ。建前上、序列第1位のルベン族を担ぎだしたのである。たしかにルベン族はおびただしい数の家畜を所有しており、牧畜用の土地を得たいと思っていた。だが、それにもまさってガド族はじつに数えきれないほど多くの家畜を所有していた。
それに、ガド族といえば、「略奪者に襲われても、敵のかかとを追撃する」といわれるほど武勇に優れていた(「創世記」49:19)。だから、イスラエル指導部との交渉が始まると、ガド族は、自分たちの武力をちらつかせながら、交渉の主導権をとったのだ、とラビたちは推測する。
事実、領土の分譲にさいして、まっさきに肥沃な土地を取得したのはガド族であった。 わずかな語順の入れ替えから、ガド族の主張を容れつつ、カナン侵攻をすすめることが、全イスラエルを指揮するモーセにも必要だったという事情も判明するのである。
ちょっとした変化や相違に気付き、そこから推理し研究する。これがユダヤ人の伝統である。

6.古典と現代

古典の世界は、しばしば現代とかけ離れている。だが、それは時間的距離、科学技術水準の高低、歴史的世相の相違にすぎない。一皮むけば、そこには現代人と変わらない人間心理が展開している。日常生活における交渉や駆け引きといった心理的意識に格差はない。むしろ現代との距離があるがゆえに、古典の中に登場する人物たちの人間性を、我々は客観的に観察することができる。
それも一度ばかりではない。同じ本でも古典は読むたびに新しい発見をする。北極星を観測するたびに、自分がいる位置や座標軸の再確認がなされるように、現在自分が置かれている環境、状況が前回読んだときと違うと、また新しいヒントや教訓が浮かんでくるのである。
古典を読みながら、筆者はしばしば自分自身を登場人物に置き換えてみる。自分がその立場であったら、自分はどのように対処し、その問題を克服するだろうか。古典のケースから何を自分は学ばなければならないのか。実際に自分を登場人物と置き換えて考えた記憶が、問題に遭遇したときの応用となるのである。
古典を文学観賞するだけではもったいない。日頃から、自分の問題を古典にあてはめ、古典のなかで観察と比較して、自分の問題を分析する習慣をつけることだ。それには、まず古典の記事・記述の内容にさえ疑問をもって臨むことが大切だ。


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