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【連載:ユダヤ人の発想に学ぶ12】 会議が下手な日本人の癖を直すには
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財産に関する事件は判事3人によって決定される。窃盗もしくは傷害事件は判事3人で審理される。死刑可能性のある事件は判事23人で始める。部族、偽預言者、大祭司に関する事件は最初から判事71人で審理する。 (『タルムード』サンヘドリン)篇1章)
1.言論不自由の日本ユダヤ人の会議では活発な議論がかわされる。かれらの議論には、我々日本人にない工夫がなされている。第1に、「言論の自由」である。 現代の日本にももちろん言論の自由がある。とはいえ、日本には「言わぬが花」とか、「物言えば唇寒し秋の風」、「物言えば角が立つ」など、発言することによってトラブルを招きかねないから、言わないで済まそうとする傾向がつよい。 これでは言論の自由とは名ばかりで、実態は言論の不自由である。和を尊重して、物事を穏便に済まそうとする気持ちは理解できないでもない。だが、和を重視せよという社会的慣行が、いわば無言のうちに言論抑圧をひきおこしている。その意味で、日本の言論の自由はいまだ名目上のことであって、真に言論が解放されているわけではない。 ユダヤ人のあいだの言論の自由は、3000年前の聖書時代の「預言者」以来の伝統である。 ユダヤの預言者は、未来予見の「予言者」ではなかった。国王や国民をいさめる「警世家」であった。 ダビデ王の不倫を叱責した預言者ナタン。女王イザベルの専横を糾弾した預言者エリヤ。エジプトとの安易な妥協で国運回復を図ろうとする王へ猛省をもとめたエレミヤ……。 絶対的権力をもつ帝王を真正面から批判するのは、当時としてはよほどの覚悟が必要であったし、危険も覚悟しなければならなかった。とはいえ、おおやけにそういう批判を演説できたのは、いずれにせよ言論の自由がある社会だったからである。この伝統は、その後もユダヤ社会に脈々と生きつづけ、現在に至っている。 2.異なる意見をのべるには第2に、ユダヤ人たちは「他人と異なる意見をのべる訓練」ができている。ユダヤ人は議論をするさいに、かならず他人と異なる意見を発言する。というのは、ユダヤ人は、人間がみな平等だと考えているからである。一人々々がそれぞれ違った意見を持つことを大事にし、一人々々がしっかり自分の意見を述べる。 しばしば、ユダヤ人が2人集まると3つの意見が出る。それは、始終、さらにベターな意見がないかと模索しているからだ。だから、ユダヤ人はなかなか意見がまとまらない。それどころか30分後にはさっき述べた意見と違うことを主張しはじめていることさえ珍しくない。 日本人は和に専念するから、グループ全体の意見が形成されるまで発言しない。ユダヤ人は2人で3つの意見が出るのに、日本人は3人で1つの意見しかない。日本人は建前を優先させ、グループ全体の意見をあたかも個人の意見のごとくして、個人の本当の意見をのべない。 ユダヤ人は走りながら問題点を考える。だから交渉の途中で前と同じ問題点にもどってくることもよくある。日本人のように最初に結論を考えたりしない。ユダヤ人にとって必要なことは問題点を早くはっきりさせる事である。 その上で、ユダヤ人はいろいろ意見を出し、さまざまのオプションを検討し、次第に不要な選択肢を捨て、最後に残ったオプションを決定とする。 つねにベターなアイデアや解決を模索しているから、目の前の意見に対しては、それが誰の意見であれ、適切でないと思えば遠慮なく「ノー」という。「ノー」と言った後で、考え直して「イエス」と豹変することもしょっちゅうである。 いろいろな交渉のさいも、いくつも試行錯誤を重ねながら契約文書案を作る。ユダヤ人にとって、最初に提示する文書はたんなるサンプルにしか過ぎない。ところが、日本の企業間の文書は、たいてい最初のものが最終的文書だ。 他方、日本人は「ノー」と思っても言わない。「ノー」といえば交渉が行き詰まり、それで最後だと考えているからだ。意見を言わないことや、意見が少ないことは決して交渉上の美徳ではない。日本人に欠如しているのは、もっと大胆かつ率直に自分が思っている意見を述べることである。 サッカーを例にとれば、選手は最後の瞬間までゴールをねらい、1点でも余計に得点をあげるチャンスを窺っている。同様に、ユダヤ人は最後まで最善の可能性を追求する。そして、最後のぎりぎりの時間がくると、最終決断をする。これがユダヤ人の物事の考え方の基本姿勢である。 3.物事の行間へ疑問をもて議論の途中はいくつでもアイデアを出すというユダヤ方式は、彼らの伝統的な学問の仕方と無縁でない。ユダヤの伝統的学問タルムード・トーラーでは、聖典を学ぶさいにテキストを額面どおり受け取るのではなく、その立論の矛盾を突いたり、文字のうらにひそむ本来の意図を探究したり、行間をよむ。行間を読みながら、より真実へ近づいていく。すでに2000年以上にわたって歴代の学者が研究してきたタルムードやトーラーなどの古典は、素人目には、いまさら新しい解釈や意見など加えられそうにないと見える。だがそれでもユダヤ人たちは新しいコメントをそこに書き加えていく。古典のテキストは不変でも、それを読む側の置かれた状況と問題意識が違えば、古典はまた新たな回答と示唆をあたえるのである。 問題意識が多ければ多いほど、コメントが多ければ多いほど、問題そのものが内蔵している真実の迫り方が密度を増してくる。 コメントや意見が少なければ、全体主義や独裁主義を助長しかねない。意見の寡占化は思想の浅薄さを招くのである。 4.会議の明快な運営ルールをもて第3に、「ユダヤ人の社会には議論や会議決定の仕方についてルールが確立されている」。たとえば、タルムードの規定によれば、裁判の種類によって裁判官の員数が定められていた。 一般事件は3人の裁判官によって審理されるが、死刑の可能性がある事件は23人の裁判官で審理をはじめ、最大71人まで裁判官を増員することにしていた。はじめから死罪必至とみられる事件は71人の大法廷でさばいた。 判決はつねに多数決によって決定されてきた。1票差でも多数決が成立するようにと、裁判官は奇数の人員で構成されていた。しかも無罪判決は1票差でも成立したが、有罪死刑の判決は2票差以上ないと決定してはならないと定めていた。だから、僅差の場合は裁判官を2名ずつ増員し、再審理を繰返していた。それも有罪支持者が無罪支持に変更することは認めたが、最初に無罪支持をしていた者が後で有罪支持に意見変更することは認めていなかった。 発言の仕方も、若年の裁判官から発言することを基本にしてきた。年長者や長老がさきに発言し、若い者の自由豁達な発言を封じることがないようにしていた。 しかも、法廷は裁判官どうしがお互いの顔が見えるように半円形に座席をしつらえてあった。 こうしたルールは、裁判にかぎらずユダヤ人社会では今日でも生きている。 長老の演説や先生の講義に対しては静粛に耳をかたむけるが、発言の機会が与えられると、年少者でも臆せず自分の意見をのべる。自分の理解や意図とちがえば、気後れせずに質問もする。質問は無礼ではない。質問もせずに中途半端な理解のまま散会することこそ主催者への無礼である。そうユダヤ人は思っている。 5.どうすれば発言を引き出せるかだれか特定の人物の意見に付和雷同するなんてとんでもない。侃々諤々の議論こそ会議の質をたかめ、出席者の満足をたかめる。発言しないことは自己喪失であるとさえユダヤ人は思う。だから、ユダヤ人のあいだでは、会議の司会者やコーディネータは全員に発言の機会がまわるように気配りする。それはさりげない話しかけではじまる。 「ただいまレビン教授は、イスラエル軍は占領地から段階的に撤退すべきだと申されました。この意見について、皆さんそれぞれご意見があるでしょうが…」といいながら、フランケル氏のほうを見て、「フランケルさん、あなたはどう思われますか」という具合である。 これが日本人の会議だと、「ただいまの話について、どなたか意見はありませんか」といきなり不特定多数にむかって意見を求める。ユダヤ人の社会では「どなたか…」と司会者が言ったとたんに、もう挙手して発言する者が出てくるかもしれない。だが日本人のあいだでは、これでは考えの準備も何もできていないから、出席者からの発言は求め難い。 リーダー自身さえも、いま話した人の話の内容をきちんと把握していないのに、いきなり出席者からコメントをもらおうとする。だから、話しの趣旨とチグハグな質問や意見が聴衆から出てくる。 皆の意見を引き出すためには、会議のリーダーは皆に考えさせるように仕向けなければいけない。それには、(1)話を要約し、(2)その上で皆に考えをうながし、(3)物を言いたそうな顔をしている人を直接指名する、のが効果的だ。 場合によっては、発言者がかたよらないようにするために、まだ発言していない人にも指名する。そのさいに、発言しやすいテーマなり問題について指名することが大切である。そのためにも、会議のリーダーが前の発言者の話の内容を咀嚼し、要約することが大切である。皆と共通の理解に立ったうえで、さらに議論を進めることが望まれるのである。 日本人の会議下手というのは、そもそも他人の意見を咀嚼しないまま、発言させようとする点に原因があるように見える。会議を建設的にすすめるためには、会議のやり方からして改めるべきである。 |


