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【連載:ユダヤ人の発想に学ぶ13】

アラファトの足跡に見るパレスチナ問題
手島 佑郎  
(ギルボア研究所所長・ヘブライ学博士)  
 
現代は情報化社会だといわれている。だが、おびただしい情報の氾濫のために、却って物事の真相が見え難い時代となってきている。今回は、故人となったアラファトPLO議長の実像を再現し、今後のパレスチナ和平への可能性を探ってみよう。



「国家の尊厳と神聖さは、厳正な正義の執行の上に存在するものである」と、1847年にドイツのユダヤ人政治家フリードリッヒ・シュタールが語った。この理念の上に、現代ユダヤ人国家イスラエルは建設されたのである。
だが、同じ地域に国家を建設しようとするパレスチナ人の間には、残念ながら厳正な正義の執行を目指そうとする意識が現在のところ、その指導者たちの間に薄いように見受ける。
その実例を、今は亡きアラファトの足跡から辿ってみよう。

1.アラファト議長の足跡

2004年11月11日にパレスチナ評議会のアラファト議長が死去した。75年間の彼の生涯は、文字通り波瀾に満ちた一生であった。
彼の活動に対してアラブ人はおおむね肯定的であり、イスラエル人はおおむね否定的である。しかし彼の活動をどのように評価するかは、いずれ歴史がくだすことである。いずれ敵味方の対立を超えて、歴史が彼の功績や業績を審査するであろう。それは、アラファト個人だけに向けられるものではなく、彼と一緒に行動した人々も含めて判断さるべきことであろう。彼の足跡と人となりを辿ってみると、少しではあるが、パレスチナ問題の将来の展望が見える。
ヤセル・アラファト、実名ラフマン・アブデル・ラオウフ・アラファト・アル・クーダンは、1929年8月4日、パレスチナ人の商人の7人の子供の5番目として生れた。アラファト家はガザの出身で、代々の墓地もガザ郊外カーン・ユニス村にある。彼がエルサレムで生れた確証はない。
彼はエジプトで教育を受け、エジプト軍に徴兵されている。ということは、カイロ生れでエジプト国籍を保有していたと見るのが妥当であろう。兵役後、クウエートで仲間たちとイスラエル征服をめざしてファタハ党を設立する。父親を1948年の第1次中東戦争で失ったことも、パレスチナ独立運動に身を挺した動機のひとつである。1967年の第3次中東戦争でアラブ側が大敗したことが彼を決起させ、ファタハ党を中核に1969年パレスチナ解放機構(PLO)と拡大し、その初代議長に就任した。
PLOを世界的に有名にしたのは、1972年ミュンヘン・オリンピック大会で、選手村を攻撃し、イスラエル選手11名を殺害した事件である。事件の実行犯は「ブラック・セプテンバー」とよばれるテロ組織だが、この組織を直接指揮したのはアラファトであった。それに続く73年スーダンのサウジアラビア大使館襲撃とそこに居合わせたノエル米国大使殺害もこの組織の犯行であった。その他、いくつもの航空機ハイジャックや爆破など、アラファトの指揮下で行なわた国際テロ事件のたびに、彼は世界を震撼させた。

2.平和路線への転換

当初はテロ集団として恐れられていたPLOだが、それがいつしか世界や日本のマスコミから同情の目で報道されるようになった。その秘密は、
最初、PLOは国民の半数がパレスチナ人というヨルダンで活動し、半公然と国内国家をつくる。そのため1971年9月大流血の末、ヨルダンから追放され、レバノンに逃れた。
当時、PLOと呼応してイスラエルのテルアビブ空港を襲撃したのが岡本公三らの日本赤軍派であった。
PLOはレバノン国内でもまた半国家をつくる。そのため増大したPLOとレバノン政府軍との間で内戦になる。これが契機で、イスラエルの介入を招き、82年イスラエル軍はパレスチナ人収容地区を襲撃した。そのさいの収容地の惨状が世界に報道され、一転してPLOとパレスチナ人とが同情の的になりはじめた。同時に、それ以前のPLOのテロ行為は世界からもはや記憶されなくなった。
1988年にアラファトは、武力闘争から平和路線へと政策転換をし、これが93年のイスラエルとパレスチナの暫定相互承認、すなわちオスロ合意となった。そして交渉の表舞台に立った当時のイスラエルのラビン首相、ペレス外相と共に、アラファト議長は1994年ノーベル平和賞を受賞した。
その後、2000年、クリントン米大統領の仲介で、イスラエルとパレスチナはパレスチナ国家創設にむけて協議を重ねた。しかも、じつは交渉99.9%がまとまっていた。
だが、最後の段階で、アラファトが交渉を拒否した。
理由は、イスラエル側がエルサレム神殿内域の帰属をパレスチナ側に認めたものの、城壁の外の地下の長さ約100mのトンネルをイスラエル側に帰属させるように認めて欲しいという要求をしたからである。イスラエル側にとっては、それは神殿の西側外壁「嘆きの壁」に通じる基底部分であり、そこは古代ユダヤ神殿の出口を含んでいたからなのである。
交渉決裂の直後、パレスチナ人による暴動インティファーダが再発し、それが現在の分離壁建設へと発展してきている。

3.PLOの理念

では、なぜアラファトは交渉を拒否したのか。ひとくちでいうと、イスラエルの存在を認めないことがアラファトの権力基盤であり、存立基盤だったからである。
1948以前のパレスチナ全土の回復を、アラファトはPLOの目的として掲げてきた。たとえエルサレムの神殿の丘の地下トンネルの領有権を100mといえどもイスラエル側に認めるというのは、神殿域全域をパレスチナの領有にしたいという彼の長年の悲願に瑕疵がつく結果となるからである。
いまでもPLOの地図には、イスラエルの国名は記載されていない。
ちなみに、イスラエルと正規の国交がある隣国ルダン発行の地図には、イスラエルとパレスチナの双方が明記されている。エジプトならびに、その他のアラブ諸国の地図には、いまだにイスラエルの国名は印刷されていない。
奇妙なことだが、イスラエルとエジプトとの間には正式国交があるが、エジプトで一般市民が使っている地図上では、まだイスラエルは便宜上の存在なのだ。
オスロ合意にいう、暫定的に国土をイスラエルとパレスチナとの間で分割することには、アラファトは容認できた。だが、恒久的分割となると、じつは、それはPLOの理念の否定であり、アラファト自身のこれまでの闘争を否定することにつながりかねなかった。
だから、パレスチナ自治政府の地図にも、イスラエルという国名は今も存在していないし、記載もされていない。
暫定合意は、彼にとって時間稼ぎの手段であったのかもしれない。
彼の真骨頂は、1974年の国連総会に招かれたときの演説である。「きょう私は平和の象徴のオリーブの枝と自由の戦士の銃とをたずさえて、ここに来ました」と演説し、事実、その腰には回転式拳銃を携帯していた。

4.アラファトの後継者たち

オスロ合意をめざして舞台裏でイスラエルと交渉したのは、現実派のマフムード・アッバス(69歳、前首相、アラファトの死後、PLO議長に就任)であった。
アラファトはアッバスを排除したかったが、彼を抹殺することはできなかった。2003年に首相を辞任しても、彼はPLO事務総長の要職にとどまっていた。というのは、アッバスは1965年のファタハ党創設以来の盟友であり、民衆の間でのアッバス支持の声は大きかったからである。彼を無視したり、ましてや抹殺したりすれば、直ちにアラファトへの支持そのものが揺らぎかねなかった。
アッバスは諸外国からの信用が厚く、PLOの資金集めに欠かせない人物であった。米国の要人たちとも親交があり、自らをテロ活動から遠ざけ、西側諸国からのPLOに対する風当たリを和らげげてきた。
アッバスは、2000年9月の暴動への理解は示したが、その後の暴力活動には終始批判的であった。
アラファト亡き後の現在、パレスチナ人で最も信望が厚い指導者がもうひとりいる。ファタハ党の中で武闘を指揮していたマルワン・バルゴーティである。
彼はパレスチナ人の間では英雄視され国民的人気がある。しかし、イスラエル観光大臣暗殺など数件の罪に問われ、現在イスラエルの刑務所で終身刑に服している。当分の間、イスラエルが出獄を認めそうもない。もし彼が釈放されれば、武闘派のハマス支持のパレスチナ人も彼を大統領に推挙するであろう。

5.巨額資産のなぞ

ところで、アラファトの資産は、「フォーブス」誌によると2億ドルあったという。
米国とイスラエルの諜報筋によると、60億ドルだという。それらは銀行預金、航空会社・バナナ園・ハイテク企業などへの直接投資や株式投資などに分散されている。一部はイスラエルの市中銀行の秘密口座にも預金されている。
現在パリに住んでいるアラファトの未亡人スーハは、今も毎月10万ドルを生活費としてパレスチナ自治政府から受取っている。
IMFの昨年度の報告によると、パレスチナ自治政府宛に支払われた9億ドルが、自治政府の口座から消えているという。
1996年まで自治政府財務大臣をつとめていたジャウィド・アルフセインによると、彼が知っている範囲では、アラファトは少なくとも12年間にわたって毎月750万ドルから800万ドルの資金を彼の個人口座に移していたという。これだけでも、単純に10億ドル以上になる。アラファトが長年にわたって権力の座を他人に明け渡さなかった理由のひとつには、こうした不明朗な資金の流れを他人に知られたくなかったこともあったものと思われる。
パレスチナ再建のためには、こうした巨額な隠匿資金が公明正大かつ透明にきちんと運用されることが必要なのである。
そうした資金管理の透明さを確立せずに、ただパレスチナに財政支援を与えても、本格的なパレスチナ再建は難しい。
これはアフガニスタン、パキスタンをはじめ、中東各地の貧困地域のどこにでも当てはまることなのである。


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