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【連載:ユダヤ人の発想に学ぶ22】

〜目には目を〜
手島 佑郎  
(ギルボア研究所所長・ヘブライ学博士)  
 
イスラエルとパレスチナの抗争だけでなく、中東各地で日本のマスコミが報道していない民族間対立、部族間流血が続いている。そうした争いを日本のメディアは、「目には目を」という表現で報道し、何だか野蛮な報復を無限に連鎖反応させているかのように描く。だが、そうしたステレオタイプな見方に筆者は疑問を感じる。



戦争は決して「目には目を」という思想の産物ではない。それは、単純に憎悪と敵意と、そして、しばしば物的・領土的野心によって支えられた支配欲のなせる業である。 中東も含めて、今日の世界各地での紛争の根本的原因は、現地の民族・部族間の自然発生的な住み分け、歴史的な地域の地理的境界を無視して、第1次大戦後、植民地支配をしていた列強が人為的に国境線を画定したことに遡る。
その結果生じた現代世界の民族間対立は、そう簡単に解消できないし、国境をまたぐ紛争も、そう単純に解決できない。
そこで今回は、「目には目を」という慣用句の背後にある歴史的背景と、その示唆する問題の広がりとを読者に紹介し、視野を拡げていただく材料としたい。

1.「目には目を」の正しい理解とは

そもそも、「目には目を」という言葉にこめられている意図は、平和的解決である。もし目を傷つけられた場合には、それに相当する代償を払って、平和的に解決せよというのが、本来の趣旨である。
「目には目を」という掟は、聖書にも、コーランにもある。その伝統は少なくとも、ハムラビ法典(B.C.1700頃)に遡るだけでなく、それよりもさらに古い、B.C.2000年頃のメソポタミアの「エシュヌマ法」にまで遡る。
エシュヌマ法では、他人の片目を損傷した場合、銀1ミナを被害者に補償金として支払えと命じている。その他の傷害補償の例として、鼻:1ミナ、指:2/3ミナ、歯:1/2ミナ、耳:1/2ミナ、足の怪我:1/2ミナ、顔面を殴打:10シケルなどを挙げている。また、場合によっては休業補償などの損害賠償金の支払いも課せられていた。
銀1ミナが、現在の貨幣価値でどれ位に相当するかは議論の余地がある。聖書中には、あるレビ族の青年を、祭司として雇うさいに、衣食住を支給する他に、銀10シケルを年俸として支給したという記述がある。レビ族というのは、古代イスラエル民族の中で、礼拝の雑事を掌る部族であった。雇い主が約束した小遣いとしての銀10シケルの価値は、現在の貨幣で少なくとも、100万円以上の価値があったことになろう。そして銀10シケルは銀1ミナであった。ということは、目1個の賠償金は100万円以上であったことになる。
つまり、100万円以上の賠償金を払う覚悟がなければ、そう簡単に他人を傷つけたりなどできなかったわけだ。聖書も、コーランも、「目には目を」と人々を復讐へあおり立てたわけではない。むしろ周知の賠償金額を具体的に思い起こさせ、紛争を予防しようとしていたのである。

2.タルムードのマルチ問題意識

では、法定賠償金だけを払えば、問題は落着するのか。この疑問に対して、ユダヤ教法の専門家であるラビたちは、必ずしもその通りに事件は落着しないという見解を示している。ラビたちは、賠償の対象範囲を精査し、法典タルムードの「ババ・カマ篇」の中で、次のように結論づけた。「もし人がその隣人に傷を負わすならば、かれは5つの罪名で責任を負う。すなわち、傷害、苦痛、治療、時間損失、侮辱である」と。
まず、身体的損害であるが、これは物理的には賠償しやすい。タルムードは、次のようにしるしている。「傷害そのものい関しての賠償金額は、どのようにして決めるのか? たとえば、隣人の目を失明させたり、その腕を切ったり、その足をかたわにした場合、さながら彼を奴隷市場で売る奴隷のように、人格を無視して観察し、傷害を受ける前の彼の五体満足な状態での肉体的評価額と、傷害をうけた今の評価額とを比較せよ。その差額が、彼に支払うべき損害料である」
物的損害は、それが人間であれ、家畜や製品であれ、完全な形で競売にかける場合と、瑕疵があって競売にかける場合との差額で決定したのである。目には目をといっても、身体的には、逆に目を失った場合の肉体的価値の目減り分だけを償えば済んだのである。

3.苦痛の賠償と治療費の負担

とはいえ、現実にはそれだけの償いでは被害者は納得しない。そこで、第2の「苦痛に対する賠償」が発生する。それについてタルムードは、「苦痛の賠償額をどう決めるか? たとえば、鉄串、または釘で隣人に火傷させた場合、たとえ彼の爪のように、傷が残らない箇所であっても、苦痛の甘受に見合うと当事者が欲する金額を算定しなければならない」と定義している。単純にいえば、傷が残るかどうかは問題ではなく、幾ら貰えれば、その金額と交換で、痛んでみたいと思うかである。
肉体的欠損は奴隷市場の市場価格で決まるが、苦痛の賠償額は客観的基準では算出できない。苦痛の価値は主観的判断による要素があるから、慰謝料は高くつくことになる。
治療費に関する算出規定は明確である。「治療費の賠償金額の決定はどうするか? 隣人を打った場合、加害者には治療の責任がある。打撲が原因であっても、もしその箇所に腫瘍が発生するならば、加害者の責任である。もし打撲が原因でないならば、免責される。もし腫瘍が発生し消滅し、また発生し消滅すると再発を繰り返すならば、治療する責任がある。治療が完了したら、加害者はもはや隣人の治療に対して責任ない」
古代社会での医療費がどれくらいのコストであったか、筆者は知らない。現代の日本の医療費のように高額ではなかったかもしれない。それでも、苦痛への慰謝料と医療費との両方だと、金持ちでないかぎり、大変な負担であったであろう。他人に傷害を与えることは、後々のコスト面で非常に割が合わない行為であった。

4.時間損失、つまり休業補償

タルムードの事例で、きわめて現代的な議論は、時間損失についてである。
時間損失という言葉のヘブライ語原文「シェベット」を直訳すると、「居坐」、つまり何も為さない無為のまま坐っている状態、治療のために何もできないでいる状態のことである。
これに関する規定が面白い。「時間損失という無為の場合の賠償はどうするか? 傷を負わされた隣人がまるで胡瓜畑の番人のように何もしないで坐ったままだと見えても、すでにかれの腕の費用と足の費用を彼に支払ったのだから、それでカバーされる」と、素っ気無い条文である。
療養中は、胡瓜畑の番人のように坐食しているだけで、前の仕事ができない。だからといっても、休業補償までするには及ばないと、タルムードは訴えを突き放す。
だが、ここには重大な付帯条件があった。「苦痛代と医療費との支払いが履行されておれば」、という条件付きである。理論的には、休業補償も適用すべきである。だが、仮に傷害をうけずに五体満足で健康であったとしても、療養に要したその期間中にじっさいに生産的活動をし続けていたかどうかは立証できない。そして、立証できない事柄については、責任を明らかにすることもできない。そこで、ラビたちは休業補償への要求を却下した。但し、この論理からすると、仕事ができないことを、休業の痛みとして苦痛賠償の中にもぐりこませた場合は、反論が難しい。

5.人間の尊厳と侮辱

最後に、名誉毀損については訴えを認めた。傷害を加えられたということは、個人の肉体への侵害であるばかりでなく、精神面でも打撃を受けるからである。
「侮辱への賠償はどうやって決めるか? それは、侮辱者と被侮辱者との関係で決まる。裸体の者を侮辱する者、盲人を侮辱する者、眠っている者を侮辱する者は、いずれも責任を負う。但し、侮辱されているときに眠っていて、侮辱を一切自覚しなかった者の場合は、本人が目覚めて後になってから訴えても、免責される。ひとが屋根から落ちて、怪我をし、面目を失った場合、屋根の管理者は怪我に対して責任があるが、面目喪失については免責される。聖書(申命記25:11)にいわく、『妻が夫を救おうとして、手をのべて加害者の恥部を握った』場合、彼女は有罪であると宣言されている。つまり、相手の恥部だと分かっていながら、恥部をつかんだ場合は、有罪であるが、意識してそうしたのでなければ、免責される」
ラビたちは、社会的地位がある重要人物への名誉毀損よりも、身分の軽い下層の人々への侮辱を重大視している。社会的地位の上下も、貧富の格差も、身体的欠陥の有無も、すべて人間の尊厳と関わりない。社会的地位が高い人はそれだけ社会的責任もあるのだから、毀誉褒貶にさらされて当然である。
だが、身にまとう衣服がないことを恥と思わず仕事をしている労働者。失明していることを差別の視線で見られてもわからない盲人。豚のように眠りこけていると嘲笑されても気付かないで眠っている者。そうした人々を卑しめる行為は、相手の身分が低いだけに、重大な名誉毀損行為である。そうラビたちは断じる。
いかなる動機であれ、他人の弱点を暴露し、はずかしめ、威信を傷つける行為は、それが目的であるかぎり侮辱罪として成立する。つまり、故意であるかどうかが、侮辱罪のポイントなのである。

6.責任順序

いま世界中の指導者に最も求められているのは、時間的損失の回復である。
上述したタルムードの賠償裁定では、第4の時間損失への賠償が却下されている。しかしながら、却下の理由は、すでに第1から第3までの補償が実行されている場合なのであって、もしそれらの補償が実行されていなければ、第4の時間損失についての責任が免除されることはない。
ということは、視点を変えて見れば、加害者の無為によって止むなく被害者が無為に過ごさざるを得ない場合、じつは最優先して求められる責任の実行が、第4の時間損失についての責任である。ついで第3の治療回復であり、そして第2の苦痛への慰謝であり、最後に第1の傷害への補償なのである。
時間は金銭で買えない。金銭で買えないからこそ全資金をつぎこんで時間との勝負に早く決着をつけなければ、余裕時間が消耗するばかりか、まだ手元にある余裕資金さえも流出する。
その点をリーダーは、もっと真剣に自覚すべきである。つまるところ、「目には目を」という思想は、時間的損失への補償義務も含んでいるのである。これは、政治や社会の指導者たちだけでなく、社会の末端の企業経営や生産現場のリーダーたちにも求められている課題である。



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