![]() |
【連載:日本沈没に抗って!(3)】 ホンダジェットの大成功と三菱スペースジェットの大失敗
|
澤田 雅之 技術士(電気電子部門) |
●5月23日「型式証明を取得するための3つの重要ポイント」セミナー開催
●書籍「『性能発注方式』発注書 制作活用実践法」発売中
![]() |
![]() |
ホンダジェット エリートII (出典はホンダのHP掲載記事) |
試験飛行中の三菱スペースジェット (出典は三菱重工業のHP) |
新たに開発した民間航空機を商用運航するには、航空機製造国の航空当局による「型式証明」を取得することが必要不可欠です。
米国で開発したホンダジェットは、開発プロジェクトの開始から18年後の2015年に、米連邦航空局から型式証明を取得して事業化に成功しました。他方、我が国で開発しようとした三菱スペースジェットは、開発プロジェクトの開始から12年後の2015年に、試験機の初飛行に成功したのですが、それから7年経っても型式証明を取得することができず、約1兆円の開発費を投じた採算の目処が立たなくなったとして2023年に開発が中止され、事業化に失敗してしまいました。
米国では、米連邦航空規則に基づき、型式証明の申請者とFAA(米連邦航空局)との間で、申請された機体の安全性を確保するための要件を確定した上で、申請者が提案した「要件への適合性を証明するための手法」についてFAAと合意できた場合には、当該手法に従って要件への適合性の審査を進めていきます。
具体的には、機体の設計に関してFAAの審査官が疑問・疑念を感じた点の全てに対して、申請者は、書面で丁寧かつ分かりやすく説明・証明することにより、審査官の疑問・疑念を全て晴らしていくのです。審査官が機体の設計に関して疑問・疑念を抱く余地が無くなれば、実機の飛行試験を経て型式証明が取得できます。
このような審査プロセスは、1979年に米国製のDC-10がシカゴで墜落した事故を受けて、米連邦航空規則に基づく審査基準が厳格化された結果であると言えます。
ところが、我が国では、耐空性審査要領(米連邦航空規則に準拠)に基づいて型式証明を交付した実績が、YS-11(1964年)とMU-2(1965年)以来途絶えてしまっています。1960年代の型式証明は、設計図書の審査結果と実機の飛行試験結果に問題が無ければ取得できていたので、今日の米国での型式証明審査プロセスについて、三菱スペースジェットの関係者には、概念的に理解することも難しかったのではないかと推察されます。
ホンダジェットと三菱スペースジェットそれぞれの型式証明の取得に向けた取り組み方について分析したところ、以下の3点が、民間航空機開発プロジェクトを成功させるための要諦であることが判明しました。第3節に記載のとおり、ホンダジェットは3つの要諦全てに成功したのですが、第2節に記載のとおり、三菱スペースジェットは3つの要諦全てに失敗したと言えます。
ちなみに、我が国では、「この設計図面のとおりに作ってくれ」といった仕様発注方式の取り組み方が常識ですが、欧米諸国では、「このような性能を備えたものを作ってくれ」といった性能発注方式の取り組み方が常識です。実は、(1)の「ニーズとシーズのベストマッチング」は、性能発注方式における発注者側の基本スタンスであり、(2)の「トップダウンによる全体最適化」は、性能発注方式における受注者側の基本スタンスなのです。つまり、上記の3つの要諦はいずれも、性能発注方式の取り組み方が根底にあると言えます。
三菱スペースジェットでは、経済産業省が「ニーズとシーズのベストマッチング」に失敗しました。
経済産業省は、2003年に「環境適応型高性能小型航空機」の開発プロジェクトを立ち上げた際に、性能発注方式の取り組み方であれば基本中の基本である「ニーズとシーズのベストマッチングを図ること」を、なおざりにしてしまいました。
具体的には、小型航空機の市場動向と技術動向の調査を真摯に行わないまま、シーズとしての炭素繊維複合材を多用した、ニーズとしての30〜50席クラスの小型ジェット旅客機を、プロジェクトの開発目標として設定してしまったのです。
その結果として、プロジェクトの開発目標は、ニーズとシーズのいずれも、プロジェクトの進展につれて大きく揺らぐことになりました。つまり、2005年には、ニーズとしての座席数が30〜50席クラスから70〜90席クラスへと大幅に変更され、2009年には、シーズとしての機体の主材料が炭素繊維複合材からアルミニウム合金へと抜本的に変更されたのです。
このように、基礎設計の前提となる条件が2度にわたって大きく修正されたことから、三菱スペースジェットは、その生い立ちから迷走気味だったと言えます。
三菱スペースジェットでは、三菱重工業が「トップダウンによる全体最適化」に失敗しました。
三菱重工業は、2008年に事業化を決定して、2023年に開発中止を決定するまでの15年間に、開発の中心となるチーフエンジニアを3回も交代させています。
これでは、チーフエンジニアによるトップダウンで全体最適化を図る欧米流の開発体制など望むべくもなく、チーフエンジニアの主たる役割は、関係する専門組織ごとのボトムアップによる部分最適化を旨とする「組織対応」のコーディネーターに過ぎなくなってしまいます。
しかし、このような「組織対応」では、耐空性審査要領に記載された個々の技術的要件に個々の設計を合致させていこうとするアプローチに終始してしまうため、今日の航空機で多用されているソフトウェアによる制御機能の信頼性を証明することなどは困難です。このことが、三菱スペースジェットの型式証明が取得できなかった大きな要因であったと言えます。
三菱スペースジェットでは、国土交通省が「性能発注方式の取り組み方」に失敗しました。
国土交通省は、型式証明の審査実務を担う航空機技術審査センターを2004年に設立しました。当初は所長以下6名の体制でしたが、後に73名の体制にまで拡充されました。しかし、今日の米国における「性能発注方式の取り組み方を根底とする型式証明審査プロセス」の経験者や理解者は皆無でした。
また、国土交通省は、型式証明審査プロセスのスタートを規定する「型式証明申請書」とその添付書類(設計初期に設計計画書を提出。製造着手前に設計書、図面目録、設計図面、部品表、製造計画書を提出)に関する航空法施行規則の規定を、1960年代の記載内容からほとんど変えていません。
これでは、型式証明の申請者(三菱重工業)が、1960年代と同様に設計図書の審査結果と実機の飛行試験結果に問題が無ければ取得できると捉えてしまったとしても無理はないところです。
ホンダジェットは、次のとおり、ニーズとシーズのベストマッチングからスタートしています。
ホンダは、1986年に新設した基礎技術研究センターで、航空機の機体とエンジンの研究プロジェクトを開始しました。このプロジェクトが当初から掲げた目標は、最先端の航空機技術を結集した小型航空機を全てホンダ独自で開発することでしたが、航空機技術を持っていなかったホンダには大変なチャレンジでした。
そこで、プロジェクトの発足後、主要メンバーはすぐに渡米して、ミシシッピ州立大学の航空研究所と共同研究を重ねるなど、最先端の航空機技術の修得に取り組んだのです。「後発組のホンダが新規参入するからには、従来の常識にとらわれない圧倒的な価値を生み出す」という目標は、当初からメンバー全員に共有され、後にホンダジェットとして結実しました。
ホンダジェットでは、最初から最後まで、藤野道格氏のトップダウンによりプロジェクトの全体最適化を図っています。
1984年にホンダに入社した藤野道格氏は、1986年の研究プロジェクトの発足時から2022年に退職するまでの35年間にわたって、ホンダジェット一筋でした。そして、ホンダジェットの開発と事業化で常に強力なリーダーシップを発揮し続けたのです。このことは、権限を集中させプロジェクト全体を指揮する(つまり、トップダウンにより全体最適化を図る)リーダーの存在の重要性を、藤野氏は米国ロッキード社のOBから学んでいたからできたことです。
それゆえ、ホンダジェット最大の特長となった「主翼上面にエンジンを配置する」という、それまでの常識を覆す発想が生まれて具現化することができたと言えます。
ホンダジェットでは、第1節の(2)に記載した「米国での型式証明の審査プロセス米国での型式証明の審査プロセス」の本質を良く理解して、FAAに240万頁もの説明・証明書類を提出することにより、型式証明を取得することができました。
ちなみに、2024年12月の4日付と10日付のAviation Wire記事【特集・ホンダジェット生みの親、藤野氏に聞く(前編)(後編)】によれば、下記がホンダジェットの型式証明取得に至るまでのキーポイントです。
澤田雅之技術士事務所所長、元警察大学校警察情報通信研究センター所長。
2016年以降、サミットやオリンピック等のカウンタードローンに向けて、警察庁、警視庁、海上保安庁、経済産業省等で講演。2018年以降、空の産業革命に向けたドローンの利活用や、空飛ぶクルマを含めた民間航空機の開発・実用化のプロセスなどにも調査研究の対象を拡大し、執筆や講演の実績多数。